「つまらない」
と、なんとなく思う。
WBCで日本が優勝してから
野球は長嶋・王の「神の時代」から、
「人間の時代」に以降したんじゃないかと云う気がした。
それはスターの喪失をも意味している。
キヨハラの解説が苦々しく、痛かったのはなぜだ。
テレビ、映画も、
吉本的なるものと、ジャニーズ的なるものに
(或いは政治経済、メディア、政治における創価的なもの)
支配されてしまって、
フリークスと呼べるような怪人的スターが出なくなってしまった。
飯島愛が死に、小室が捕まり、キヨシロウが死に、
マイケル・ジャクソンが死んだ。
それをyoutubeで「ごっつええ」を見ながら思う。
あのような番組はもう出ないし、
ダウンタウンはもう、ある意味死に体だからだ。
板尾は14歳の女子に淫行したからこそ、板尾であり、
極楽の山本とは明らかに何かが違う。
彼の顔は、もっとおぞましい。(ゆえに面白い)
坂本龍一が悪のりし、そして反省し、後悔した、
「ダウンンタウン的なものの功罪」とは、
すべてのものを茶化し、笑い尽くしたことで、
もはや笑う対象を喪失してしまった。
あらゆるものが、笑えるほど、強くなくなってしまった。
ということだろうか。
今や政治家たちの方がよっぽどひな壇芸人らよりもギャグだ。
ぼくらはしょうがなく、ハリウッドのモンスターのような
夭折した新ペンギンだったり、トム・クルーズだったり、
そのような世界的奇人たちの演技を、享受するしかない。
世界にはまだまだ化け物はいる。
だが、日本。
松岡正剛やいとうせいこうがスター的ポジションになってしまう現在、
彼らが言うように本当に「編集の時代」が来ているのだなと感じる。
何かと何かのつなげ方、その方法論の時代が来ているのだ。
そこでは松岡が「主題の時代」と言っていたような
強烈な個性や熱狂は存在していない。
マルキシズムもファシズムも、ジャズもロッキードもない。
アートも、アールブリュット(生アート)のような
障害者もの、アウトサイダーものしか 販売価値がつかないように
なっていくだろう。
ヘンリー・ダーガーのような人らが、たまに発見されては
コレクションされて、売り買いの対象になるだろう。
草間弥生が、auの新携帯を真顔で「私、だいすき」と言う時代なのだ(!)
http://iida.jp/products/yayoi-kusama/
コジェーヴだか、ボードリヤールだか忘れたが、
「これから世界は日本的ポストモダンとして余暇を消費するようになるだろう」と言っていたような記憶があるが、
そのようなとっても、とっても「つまらない時代」にあって、
今の時代を楽しんでいるのは、
ポストモダンのジャンキーのようなものたちのみだ。
ギミック・フリーク、情報フリークたち。プチ・オタクたち。
プチ金を持って、webによって自意識を肥大させた
ポスト・プチたち。技術刷新に、「依存」できるものたちだけだ。
プチ・ジャンキーとして生きれない僕らは、
何をするべきなのか。
今僕は個人的な問題もあって、
想像もつかないくらい、感覚的にも思想的にも
追い込まれている。
ぼくらの絵は病院の中で拘束着をまっとて描かねば、売れぬのか?
ぼくらの映画は人気コメディアンにならねば、ディレクションされぬのか?
ぼくらの音楽は、愛や恋人讃歌や感謝を歌わねばいけぬのか?
そしてそれは、「おもろい」のか?
・・・処方箋も、特効薬もない。
すでに家電界においてイノベーションがないのと同じように。
モンスターに憧れ、モンスターに羽化しかけていた僕らは、
そんなプチ・ジャンクな、プチ・情報の、プチ・社会のなかで
なんとかおべっかをつかって生きて来た。そうだ、プチプチだ。
経済の復興は、一度民主党政権になって、
破壊され分裂した新・自民党の中にしか望めないと
経済学者も言うように、
文化の復興は、一度プチプチがどこまで広がって行って、
(それは丁度すべてのものがwikipediaで検索可能になるような社会の光景)
音も立てられぬぐらい泡が席巻した後でなければ、
のぞめないのだろうか。
問うことから始められねばならない。
どうしょもないプチへの怒りを胸に秘めながら。
僕らモンスター族の残留孤児らは、
必死に新世紀の未明を、漂わなければならないのだ。
「勉強して、勉強して、勉強しろ」とレーニンは言ったという。
「走って、走って、走れ」とオシムはそれを踏まえて言った。
僕は「作って、作って、作る」しかないのだと思っている。
問いは始められたばかりだ。
長岡 槙市
(この項つづく)
Shinichi Nagaoka Art Works of Photo.